Home歴史上帯那(甲府市)

上帯那(甲府市)

位置

荒川の支流帯那川上流に位置する。


地名の由来

帯那の地名の由来は、耕地が帯のように長く、那は野を意味することによると言われ(国志)、下帯那に対する。古墳などの分布からみると、下帯那より上帯那のほうが先に開発されたと思われる。


江戸期~明治8年ごろ

上帯那村という村名。北山筋に属す。はじめ幕府領、のち甲府藩領、享保9年からは幕府領(甲府代官所)となる。

村高は「慶長古高帳」372石余(ほかに諏訪大明神領2石余・大明神領2石余)、「宝暦村高帳」も372石余、「天保郷帳」375石余、「旧高旧帳」も同じで、うち諏訪大明神領2石余。

「国志」によれば、枝郷に中原・水上・穴口・赤柴があり、文化初年の戸数111・人口364(男180・女184)、馬16・牛2、寺社は曹洞宗清滝山景福寺、臨済宗珠光山如意庵・瑠璃光山正覚寺・補陀山幽松庵、黄檗宗正明山福寿院、諏訪明神、脚気石明神がある。

同書によると当地は深潤の中にあって気候は他村から20余日遅れるとある。明治4年山梨県に所属。地租改正前の反別は田9町余・畑16町余など(市郡村志)。同年千代田村の一部となる。


明治後期・大正期~昭和29年

上帯那という千代田村の大字名。もとは千代田村の一部。当地は水の便が悪く、毎年田植え時期には悩まされたため、大正12年千代田村耕地整理組合が設立され、同15年に大正池、昭和2年には昭和池が完成し、灌漑に利用できるようになった。同29年に甲府市の町名となる。


昭和29年~昭和59年

上帯那町という甲府市の町名。下帯那町の千代田湖の観光地化が進むと、これに刺激されて、当地も灌漑時期を除いて大正池を釣場名所にしようとしたが、道路が粗悪のため、甲府市街地からの利用者は少なかった。

しかし、甲府市街を一望に眺められる標高725mの金子峠展望台から帯那山のハイキングコースは若者らに喜ばれるようになった。

これに合わせて昭和43年5月大正池の池畔にユースホステルが建てられた。同53年からようやく和田峠─千代田湖─下帯那─上帯那と県道天神平甲府線の舗装工事が順次進み、同55年には山梨交通のバスが上帯那まで入った。

上水道だけは依然井戸のポンプ吸上式を各戸で使っているが、住宅の改造、自家用車も増えた。

(現在では甲府市の上水道が敷設されています。)


(※以上、内容は昭和59年10月8日発行の「角川日本地名大辞典19山梨県」より引用し、段落を付けて分かりやすくまとめました。)

 

 

ページトップへ