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下帯那(甲府市)

位置

荒川の支流帯那川中流右岸に位置する。


地名の由来

帯那の地名の由来は、耕地が帯のように長く、那は野を意味することによると言われ(国志)、上帯那に対する。上帯那よりも標高が低いことにちなむ。


戦国期

下帯那という地名。山梨群のうち、天正10年に徳川氏が甲斐を掌握してのち、徳川家の奉 行として伊奈忠次が入部し、国内で検地を行なうが、その結果天正17年11月23日の伊奈忠次知行書立写では「下帯那」のうち297俵余そのほか計 2,179俵余が武田氏旧臣御岳衆惣中の知行として定められている(御岳神社文書/甲州古文書1)。

これ以前に見える帯那が上・下に分かれたものの一方と思われる。


江戸期~明治8年ごろ

下帯那村という村名。北山筋に属す。はじめ幕府領、のち甲府藩領、享保9年からは幕府領(甲府代官所)となる。

村高は「慶長古高帳」「宝暦村高帳」ともに573石余、「天保郷帳」574石余、「旧高旧帳」も同じで、うち諏訪大明神領2石余・幸潤院領8石。

慶長6年の検地では反別は田16町9反余・畑12町3反余、同年の屋敷帳によると屋敷数39(うち僧の屋敷4)で合計4,730坪(うち100坪以上の屋敷は7軒)。

「国志」によれば、枝郷に仮宿、新居があり、文化初年の戸数73・人口265(男136・女129)、馬10・牛1、寺社は曹洞宗金峯山幸潤院、安養山聖徳寺・向王山養節院、諏訪明神、八王子権現がある。幸潤院は天文6年創立といわれ、大泉寺の末寺。

同書によると山中にはまれな饒邑で、当地周辺を「帯那入り」と称するとある。

当村は御岳道9か村(塔岩・竹日向・高成・川窪・高町・猪狩・御岳・草鹿沢・黒平)と甲府を結ぶ道の出入口に当たっていた。甲府盆地と異なり寒気が強いため、牛馬は家の中で飼育するのが習慣となっていた。

明治4年山梨県に所属。地租改正前の耕地面積は田16町余・畑25町余など(市郡村志)。同年千代田村の一部となる。


明治後期・大正期~昭和29年

下帯那という千代田村の大字名。もとは千代田村の一部。昭和12年県営農業水利改良事業として千代田湖(丸山貯水池)が完成した。同29年に甲府市の町名となる。


昭和29年~昭和59年

下帯那町という甲府市の町名。千代田湖があるため、ヘラブナ釣り・ボート遊覧などでにぎわい、観光地化している。当地は世帯数・人口共に増加傾向にある。


(※以上、内容は昭和59年10月8日発行の「角川日本地名大辞典19山梨県」より引用し、段落を付けて分かりやすくまとめました。)

 

 

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